視覚と音楽,そして25年

まずは下の文章を読んでいただきたい.

K: (前略)もうひとつ音楽にとって,いかに視覚が重要かというのは,ストラヴィンスキーが「目をつぶってオーケストラを聴く馬鹿」と言ったんですが,演奏しているのを見ているというのは,音楽の体験にとって,とても本質的なんです.作曲をする場合にも,例えばバイオリンの音を書いたとき,バイオリンはステージの左側の前にいて,コントラバスの音を書いたとき,コントラバスは右側の奥にいてという空間的なイメージで,どこから音がくるかという空間的な方向性,それは音楽の発想の中でとても重要なんです.少なくとも僕には,とても重要に感じられます.

この話は非常に面白い.音楽とは聴覚からの刺激であるかのように一般に考えられているけれど,視覚が非常に重要であると.この話を見て思い浮かんだのが「振り付け」です.子供の頃,「振り付け」というものの存在意味がわからなかった.幼少期によくTVで見たTRF(懐かしい…)はただ踊っているだけのサム(安室奈美恵の元ダンナ)がいて,子供ながらに「こいつはなんで歌ってもないのに一緒にTVに出てるんだろう」と思ったわけです.しかし,翻って今の自分を考えてみると,振り付けと音楽が合っているからこそ魅力がある曲というのはいくつでもあります.僕はPerfumeが好きですが,Perfumeの曲を聴くとちゃんと曲の振り付けと表情が頭に浮かびます.とても良いです.最近はももクロにも嵌っています.とても良いです.

いや,こんな話をしたいのではありません.次の引用部分です.

A: 将来的に,演奏家というのは,最後まで残るんでしょうか?素人が自分でいろいろ演奏するというのは楽しいですよね.これは当然楽しみとして残ると思うんですよ.だけど,プロの音楽家が演奏会をする場合,オーケストラを全部電子的な合成音と自動演奏に代えるというわけにはいかないんですかね.
K: 僕は,演奏家は残ると思います.ある音楽工学家とお話をしたことがあるんですが,彼は残らないという立場なんです.電子テクノロジーについて非常に楽観的な考え方をしていらっしゃるんですね.フルートの音は,音響物理学的に分析できる.これをシミュレートしてコンピュータで合成できる,だからフルートの音は人工的に作ることができると言うんです.
(中略)ですから,これは全部機械に取って代わられるわけであって,そこでもなお本当の楽器でなくては満足しないなんて言っているのは,作曲家の弱みの表れだというわけです.今の作曲家というのは,楽器から出ないような音さえ作れる工学というものに,大きな脅威を感じなくてはいけないというようにおっしゃるんですね.「どうだ,こういう音では,音楽はつくれないだろう」というわけです.

このあたりは初音ミクを連想しますし,より発想を飛ばすと,先日の将棋における電王戦を彷彿とさせますね.ここから,演奏自体が演奏家と聴衆のコミュニケーションであるという話に進みます.

A: 聴衆の側に場の共有といったものがあるとすれば,レコードとかCDを買ってきて聴くというのなら,その部分では一面が欠けているということなんでしょうか.
K: 僕はそう思います.ただし,レコードなりCDなりを聴いているとき,「これは誰かが演奏して,そこで演奏しているものの録音だ」ということは,知っているわけです.この意識は違うと思うんです.
A: それを想像するだけで,「あれは電子がスピーカーを鳴らしているだけだ」と思って聴いているのとは,違うということですね.
K: このことは,ある意味でコンピュータ音楽を嫌う人が多いということと,一脈通じていると思います.多くの作曲家たちがコンピュータで作曲をしても,それを楽譜に書き直して,生の楽器で演奏させるんですね.また,電子的な音をテープから流しても,それと同時に自分で楽譜を書いた生の楽器と組み合わせている作曲家が多い.

このあたりも結局は聴衆が「演奏する人」を(視覚的に)想像できるかという話に繋がります.説明が遅れましたがAは研究者,Kは作曲家です.そして,演奏手が想像できるかという話であるならば作曲家を想像すればよい,では作曲自体をコンピュータがする場合はどうなるのだろうか?みたいな話が対談では続きます.

種明かしをしますが,この上記の文は25年前(1988年)に出版された『ムーグ・ノイマン・バッハ』という本から引用した甘利俊一と近藤譲による対談「コンピュータはバッハの夢を見るか?」から引用しました.僕なんかは音楽にも視覚や聴覚の研究にも造詣が深くないので,これらの対談からの25年でどれだけ研究や解釈が進んでいるのかわかりません.けれども,2013年に読んでもなんらかの普遍性を感じた対談なのでした.